視覚化された言葉の繋がりの輪と空集合のΦの話

 
前置き:“悟り”のその後

 悟りの不思議な体験をしてから、普段通りの自分に戻った私は「あれは一体何だったのだろう…」とぼんやり思いながら過ごしていました。身近な人や病院の先生に話しても、ストレスによる症状ということで片付けられてしまうようでした。自分でも、実際にそうなのだと思います。身も蓋もないようですが、何だかよく分からない映像や思考が頭の中を巡るのは病気です。病気が引き起こした妄想についてあれこれ考えたところで、健康な生活を送るのに何の役にも立ちません。

 この異常な出来事から受けたショックはどうすればいいのかという気持ちと折り合いをつけるために、吐き出すようにして書いた文章をアドベントカレンダーに投稿してからは、健全な生活を送るために、悟りについてはなるべく考えないようにして、忘れてしまうことにしました。今ではもう、どんな事がどんな順番で起きたのか、あまり覚えていません。不快感と恐怖の体験でした。

 しかし、記事を書いて一年以上が経ち、今でも悟りの話に興味をもってくれている人たちがいるのを知って、やっぱりもう少しだけ、面白そうなところだけ思い出してみようと考え直しました。記事の内容に共感していそうな人が見られないことからも、普通ではない貴重な経験をしたのだと思います。私が知っていて、他の人が知らないことを書き残しておくというだけでも価値のあることだと思えてきました。本当は誰かに知ってもらってすっきりしたかったのかもしれません。

 
言葉が視える

 幻視の一種だと思うのですが、思考した言葉や人から言われた言葉が目で見えることがありました。

 自分の頭の中の言葉はTwitterを高速でスクロールしたように上から降ってきました(上から降ってくるので、新しい文章の方が上に来ます)。それはリズムを持っていて、機械で動いているかのようでした。ギィというような、ガシャンというような、ジャコンというような音を立てて(あまりはっきりしていないということは、実際にはそんな音はなかったのでしょう)、4拍子で流れてきました。自分以外の存在に教えてもらっているような説得力や訴求力のある言葉で、時には詩のようでもありました。

 人から言われた言葉は、その人から短冊のようにして伸びてきました。キーワードだけラベルのように浮き上がっていることもありました。言葉は、実際に私が目にしている光景に上書きされているようでした。Googleの画像翻訳アプリをイメージしてもらえるとわかりやすいと思います。これは自分一人の時と違って、他人も関わった実生活に影響が及ぼされていることが際立って、とても気持ち悪く感じました。

 

廻る言葉

 視覚化された言葉のうち、いくつかの文章としてまとまりを持ったものは、連なって円を描きました。これもやはり、機械音を立てて、「しかし」とか「だから」のような接続詞のところで区切られながら、4拍子で回っていました。起承転結という概念が具現化されているようだと思いました。言葉は、自分で考えるよりも先に湧き出して高速で回転していました。

 人との会話で言葉が回ることもありました。円を描いている私の言葉に、相手が答えたり問いかけたりすると、円の一部分が飛び出したり押し戻されたりするのが見られました。そして、言葉の輪は相手の言葉に刺激を受けてまた新しい回転を始めました。相手の言葉が円を描くこともありました。私の言葉は右側に、相手の言葉は左側に円を描いて、時折押し合いをしながら回転して、少し変わった歯車のようでした。

 

言葉の回転の終わり

 しばらく回転を続けた言葉は、繋がりを持っていない、どこか別のところから来た言葉によって回転を止められます。この最後の言葉は縦に長い短冊状の言葉で、言葉の輪の真上から、これもまた音を立てて高速で降りてきます。「結論を下す」様子が視覚化されたのだと思いました。降りてきた「結論」は輪に鋭く刺さり、潰した虫の体液が飛び散るような不快感がありました。

 結論が下されて回転を止めた言葉の輪は、Φの記号のような形をしていました。私は数学の授業でΦは空集合を表すと習ったことがあります。だから、このΦの形になった言葉は、話の筋道が通っていないことを示しているように思えました。私は、論理構成を失敗してしまったのだと悔しく思いました。

 

誰か教えてくれないかな…

 今思い返すと夢の内容のようで意味が分からないのですが、連想のスピードがかなり速くなっていたのと、視覚に何らかの影響があったのは確かなようです。

 本当にあれは何だったのだろう